No.001 はじめに(前半)

No.001 はじめに(前半)

4つのゴール

初代教会の信徒のほとんどは、ヘブライ的世界観を持ったユダヤ人でした。彼らが生きた紀元1世紀のイスラエルは、長年培われてきた聖書理解と伝統を土台にした社会でした。彼らは主イエスに従いつつ、シナゴーグで学び、イスラエルの伝統的祭りを行い、ヘブル語を話し、食物規定(コシェル)を守っていたのです。

しかし2世紀になると、教会に異邦人クリスチャンが増え、すべての「ユダヤ的なもの」(ヘブライの文化・伝統)を見下すようになりました。ユダヤ人信徒が少数派となった教会は、ヘブライの起源から逸れていき、4世紀には完全に離れてしまいます。ヘブライ的なものを断ち切ったことで、教会はやがて大きな代償を払うことになります。ほとんどのクリスチャンが、自分たちの土台である岩、すなわち、ヘブライの起源を忘れてしまったのです。

しかし20世紀になり、転機が訪れます。ユダヤ人がイスラエルの地に帰還してきたことで、キリスト教史や聖書考古学の調査が進展したのです。出版された研究書の多くは、リベラル派の学者や信仰を持たない研究者によるもので、聖書の言葉にあまり敬意が払われてはいませんが、それでも、ユダヤ教やキリスト教の信仰を持つ研究者が、聖書の権威を証明する多くの発見をしました。それらの研究によって、主イエスとその生活や生涯を、現代のクリスチャンがリアルに知ることができるようになったのです。ただ、残念ながら、その情報の大部分は、教会の礼拝説教や日曜学校のお話で使われていません。

最近になって、キリスト教の土台であるヘブライ・ルーツや、2つの「神の契約の民」が結ぶべき正しい関係について、関心が高まってきました。そして今、クリスチャンが教団・教派を越え、ヘブライの遺産を取り込んで、楽しく学べるようなプログラムが求められています。しかしながら、これまで、この方面で信頼に足る情報を得られる教材はありませんでした。

ヘブライの遺産シリーズ(Hebrew Heritage Series)『アブラハムの子供たち』は、現代クリスチャンがヘブライ・ルーツを知るためのテキストです。実際の歴史的背景を学びつつ、主イエスやイエスの生きた世界に出会うことができ、どの世代の人でも使える教材です。また、このプログラムを通して、教会の複雑な歴史や、新約聖書が書かれて以降の教会とユダヤ人の関係にも向き合うことができます。24のステーションでやりとりをしながら進めますので、子供も大人も主体的に学ぶことができます。観察者ではなく参加者として、歴史の流れを汲み取れるでしょう。

このプログラムには、4つの大きなゴールがあります。

  1. あらゆる世代のクリスチャンが、キリスト教信仰のヘブライ・ルーツにつながり、現代および古代のイスラエルと関係を結ぶ大切さを理解する。
  2. 主イエスと初代教会はユダヤ的だったことを理解する。
  3. 現在、キリスト教会に巣食っている「置換神学(代替神学)」が誤りであることを知り、正しい聖書的な教えを理解する。
  4. ユダヤ人が受け継いできた聖書的な教えを知ることで、クリスチャンがさらに豊かな経験をし、信仰を強くし、神との個人的な関係を深める。それによって、成熟したクリスチャンになっていく。

ヘブライの遺産の歴史

およそ4千年前、神は、世にご自分を知らせようと願い、平凡なひとりの人物をご自身の器として選ばれました。その人を通して、神はご自分の民を興し、「神はただひとりである」という真理を人々に知らせ、愛や贖(あがな)いについて教えようとされたのです。神は歴史に介入され、その結果、人間のあり方は決定的に変化することになります。その神とは、唯一真の神ヤハウェであり、その人物とはイスラエル(ユダヤ)人の父アブラハムです。

神はアブラハムと永遠の契約を結び、アブラハムを友とし、養い、素晴らしい旅へと導かれました。神はアブラハムの内に、のちのユダヤ教の基盤となる教えや価値観を注ぎ込まれました。アブラハムによって、神はまったく新しい民を興し、その民を、あらゆる時代における神のメッセンジャーとして立てられたのです。

創世記15章に、「契約を切る」という儀式が出てきます。アブラハムの時代に中東世界でよく行われていました。動物を真ん中で二つに切り裂き、裂いたものを向かい合わせにして、人が通れるくらいの幅を空けて並べます。契約を結ぶ者たちは、手を組んでその間を通り、契約を唱え、最後に次のような確認の言葉を交わします。「もしどちらかが契約を破ったら、この動物と同じようになる」。これは、契約を守るのにとても効果的でした。しかしながら、創世記15章をよく読むと、向かい合わせの動物の間を通り過ぎられたのは、神おひとりであることがわかります。この契約が無条件の契約であることを、アブラハムとその子孫に示しているのです。

創世記18章は、アブラハムが選ばれたのは、子孫が正しいことを行い、主の道を守るようにさせるためだと語っています。聖書の他の箇所にも、神の民への神の愛、そして、神と民との契約関係について書かれています。中でも一番明確なのは、エレミヤ書31章35、36節です。「主はこう仰せられる。主は太陽を与えて昼間の光とし、月と星を定めて夜の光とし、海をかき立てて波を騒がせる方、その名は万軍の主。『もし、これらの定めがわたしの前から取り去られるなら、―主の御告げ―イスラエルの子孫も、絶え、いつまでもわたしの前で、一つの民をなすことはできない』」。この不変の契約を受け取るのは、間違いなく、神の選びの民なのです。

この最初の契約が結ばれてから、アブラハムとその子孫の長い長い歴史の「旅」が始まりました。それはとても大変な旅でした。多神教の民族にとって、神は唯一であるという真理や、モーセの律法はとても受け入れられませんでした。そのため、イスラエル(ユダヤ)人は神の教えを守ることで、他の民族とは分離された民となりました。これこそまさに、神の意図されたことです。光は、闇の中で輝くからこそ価値があるのです。しかしこのことで、ユダヤ人は排他的で高慢な民だと思われるようになりました。他の民族はまだ、従順さを求める神が受け入れられなかったのです。

クリスチャンは、神に選ばれるとは、神に特別に気に入られ、権利や特権を授けられることだと考えがちです。それが、「ユダヤ人は神の選びの民である」という聖書の教えを拒絶する一因になっています。しかし、「選ばれる」ということは「責任を持たされる」ということです。ユダヤ人は今日に至るまで、ティックン・オーラム、つまり「世界を修復する」という責任を果たそうとしてきました。ユダヤ人の選びは、聖書だけでなく、歴史も証明しているのです。

誕生したばかりの神の民イスラエルは、周辺民族の偶像礼拝に屈しませんでした。しかし、それらの民族と平和に暮らそうと努力もしました。むろん両立させることは至難で、アブラハムからイエスまで、ユダヤ人は政治的、霊的なアップダウンを繰り返してきました。時には、神の祝福によって驚くほど成功したかと思うと、時には、非常に重大で悲劇的な失敗をすることもありました。主イエスの生誕以前から、ユダヤ人はイスラエルの地からの離散も繰り返してきたのです。

イエスの教えや生活の仕方をよく観察すると、イエスはその時代のユダヤ教の教え(トーラー、律法)に従っていることが分かります。イエスは、教えをきちんと守るユダヤ人の両親に生まれ、律法の通り、生まれて8日目に割礼を受け、シナゴーグ(会堂)に行き、安息日やユダヤ教の休日を守り、その時代の男子が受ける教育を受けました。親戚もみなユダヤ人でした。イエスの教えの90%が、ラビ文学にある内容であると言われます。しかし、イエスはそれ以上のことも教えました。自分こそ、まさにユダヤ人が待ち望んだメシヤであり神の子であるということを、ご自分の権威によって宣言されたのです。

イエスの宣教方法は、1世紀に巡回説教していたユダヤ人ラビと同じやりかたでした。丘の斜面を「教室」にして、つき従う人々を回りに集めて語られました。『使徒の働き』24章5節では、イエスに従った最初の人々が「ナザレ人という一派」と呼ばれており、初代教会が始まったころはユダヤ教の中でうまくいっていたようです。同2章47節には、教会が「すべての民に好意を持たれた」とあります。『使徒の働き』の他の箇所や、さらに新約聖書全体から、初代教会が実にユダヤ的だったということが分かります。それは誰も否定できません。しかし、その後200年の間に起きた様々なことが原因になって、教会は今日のように非ユダヤ的なものに変質してしまいました。

イエスの死と復活を見た人々から数えて2世代目には、もうユダヤ的なものが失われる兆しが見えます。紀元70年のローマ軍によるエルサレム陥落、紀元132~135年のバル・コクバの乱などで何万人ものユダヤ人が殺され、また、それ以上のユダヤ人が「約束の地」から追放されたり逃げ出したりしました。そして、異邦人クリスチャンが増え、教会の大部分を占めるようになりました。それとともに、非聖書的なユダヤ人観や反ユダヤ的な考え方が教会に浸透し、少なからぬ教会の指導者がユダヤ人に敵意を示します。その結果、「置換神学」が生まれることになりました。「置換神学」とは、神はユダヤ人との永遠の契約関係を終わらせ、教会が「新しいイスラエル」になったという神学です。

中世には、申命記に記された預言どおりになりました。すなわち、「主は、地の果てから果てまでのすべての国々の民の中に、あなたを散らす」という預言です。私たちは、ユダヤ人が様々な国に散らされたことを、ギリシャ語のディアスポラ(離散)という言葉で表現しますが、聖書ではヘブル語のガルット、すなわち「追放」という言葉が使われています。
こうして世界中にユダヤ人共同体ができました。そのいくつかは紀元前7世紀の「バビロン捕囚」にまでさかのぼります。ただ、ユダヤ人共同体は、ユダヤ教の信仰と伝統に、離散先の国々の文化、食べ物、音楽が重なり合って、色彩豊かになっていきます。

しかし、ディアスポラのユダヤ人の生活は困難を極めました。十字軍や宗教裁判など、数え挙げられないほどの迫害がありました。ユダヤ人は権利をはく奪され、財産を奪われ、職業を制限され、教会からは「キリスト教に改宗しなければ死だ」と脅され続けました。東ヨーロッパでは大虐殺が何度も起き、何千もの家族が殺されました。そのすべては、クリスチャンがイエスの名のもとに行ったのです。ただ、その一方で、神の教え(トーラー)がディアスポラのユダヤ人を一つにし、迫害が彼らの結束を強めることにはなりました。

20世紀に入り、自由平等の思想が広がっても、キリスト教やイスラムの諸国のユダヤ人に対する扱いは改善しませんでした。第二次世界大戦前、反ユダヤ主義はヨーロッパだけでなくアメリカにも広がり、それは今日まで続いています。その中でも最悪だったのが、ヒトラー率いるナチス・ドイツによるホロコーストです。第二次世界大戦の終わりには、世界のユダヤ人人口の3分の1に当たる600万人のユダヤ人が殺戮されました。

ヒトラーはユダヤ人絶滅計画を正当化するために、マルチン・ルターなど、過去の教会指導者の書物にある反ユダヤ思想や表現を利用しました。しかも、残念なのは、ヒトラーがヨーロッパでユダヤ人絶滅政策を遂行しても、教会は沈黙を守り続けたという事実です。

「どんな恐ろしい状況からでも、良いものが来る」というラビの言葉があります。ホロコーストも例外ではありません。筆舌に尽くしがたいこの悲劇から、イスラエル国家が再建されたからです。1900年近く世界をさまよい、迫害され、アブラハムの子孫はついに、聖書に約束された地に帰還しました。彼らは、「シェマー・イスラエル……」、すなわち、「聞きなさい、イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである」という旗を掲げ続けていました。政治的状況はたびたび深刻化しましたが、世界中からユダヤ人が祖国イスラエルに帰還し続けました。エゼキエル書36章が成就したのです。すなわち、「わたしはあなたがたを諸国の民の間から連れ出し、すべての国々から集め、あなたがたの地に連れて行く」「あなたがたは、わたしがあなたがたの先祖に与えた地に住み……」という預言です。

イスラエル建国後、霊の覚醒を受けた諸教会で、「契約の民イスラエル」との関係を重視する動きが始まっています。イスラエルには、聖書に関わる場所や歴史的な情報がいっぱいあるので、世界中から多くのクリスチャンやユダヤ人が訪れるようになりました。キリスト教のユダヤ的ルーツを研究しようというクリスチャンも増えてきました。ユダヤ的背景に照らしてイエスを知ることの重要性を理解し、ユダヤの祭日を喜び祝う人々もいます。また、反ユダヤ主義と戦い、ユダヤ人との対話を進めようとするクリスチャンもいます。
確かに、将来何が起きるかは誰もわかりません。しかし、アブラハム、イサク、ヤコブの神が世界と歴史を支配されていることは確かです。
ユダヤ人とクリスチャンは新しい時代に入りました。神の声に耳を傾け、過去の傷が癒され、神と、ユダヤ人と諸民族との間に正しい関係が結ばれ、共に未来に向かって進む日がくることでしょう。